指導者の条件(2) − 日本の組織における特徴

日本社会の基本原則

伝統的社会構造←→精神構造が社会の基本原則であり、法律にはそれが現れている。

日本の社会はすべて機能的原則が基になっていて、機能していないものには何らの特権も認めない(ex.擬制としての血縁集団)

企業、議員、伝統芸能などには世襲が残っているところも数たくさんありますが、果たしてこの総意によるフィルタリングが機能しているのかは疑問なところですが。

法律がどんな原理に基づいているかということはあまり問題にしない。これが社会の中で十分機能して、効果をあげればよろしい

これが一つの内心の規範に一度なってしまうと、制定した権力がなくなっても機能しつづけるものです(中略)ただし、抵抗できないほどの情況の変化があった場合、(中略)生存するということが第一であるということに尽きます。

日本の現代社会において、何が最後の秩序なのかといえば、

機能集団においてある任務を果たしていることが、同時に共同体への奉仕につながっている精神的満足

だろうと。

それを踏まえると、

日本の組織は「機能集団」と「共同体」という二つの面をもっていて、人事についてもたえずこの両方を勘案していかなければいけない

と言える。
「恩」に対する意識を見てみると、若者の保守化が見られ、この構造は変わらないのではないか。

日本社会の基本原則より導かれる特徴

  • 「恩」に報いる = 共同体への忠誠心
  • 質問あって命令なし = 組織に中心がない条件下、合議制という名の空気を読みまくらないといけない場において、上司が期待する「機能」を果たす

最低限上司がそのポイントを押さえておかないと、この仕組みさえ成り立たないのですがいかに。

組織的なものの存在がなくていったいどうやって済ましていたのかということになるのですが、鎖国という非常に堅固な枠だけは絶対に破らない、そしてこの枠の中で中心は立てない。

総論賛成各論反対が生まれるのもこのせいでしょう。うーん、枠に「柔軟性」を持たせてみせるのも一つのテクニックか。

自分自身で長い歴史をかけて一つの体系を作り上げてきた、それが西欧のさまざまな科学技術を輸入するのに非常に好都合に出来ていた。(中略) と同時に、そこで非常に危険な面もたえず出てくるのですが、この二つが同時に出てこない。同時ではないから、どこかまでいくとその二つが矛盾した形で出てくる。(中略)だいたい動きが取れなくなってきた場合には、いままでプラスに作用してきたものが全部逆に重荷になってくる。重荷になってきたとき、これをどう変えていくという方法が結局見つからないので、ただ壊せばいいという発想になります。(中略)いまあるものを何でも壊してしまえば、そのあとに何かが自然発生的に出てくるだろう

いや、なんともいえない既視感。