指導者の条件(3) − 「自然」という規範

西欧における「契約」

  • 日本 − パンティズム − 中心がない
  • 西欧 − モノティズム − 一つの中心
民族の独立
小国が宗主権者と条約を結ぶように、自分は天上の神と契約を結ぶ、その契約に基づいて国内法というものを作る

神 ←契約(国内法 ex.モーセの五書)→ 政府 ←契約(カノン)→ 国民

カノン=物差であり、このカノンにより平等であることが人間の平等であり、組織論の基本。

日本における「契約」

  • 日本語は図像言語型であり、論理不在
  • 外来思想は、日本的パンティズムのなかで分解でき、その文脈に組み込んでしまえる

日本人は、逆に、そのように論理的に論証されたものは信用しません。「曰く言い難し」の面があるはずで、そのように完全に論証されたのならおそらく嘘だろう、ということになってしまう。うっかり証明すると、逆に、信用を失ってしまうのです。それよりも図像言語的積み重ねによる説得、あるいは感情的受容の方を正しいとする。

しかし、日本では契約など堅苦しいルールがなくても何かしら秩序は保たれている。その秩序の根本となるものは、「美的判断」であり、これが日本人の考え方の規範となっている。
その「自然」とは

「日本という風土の持つ秩序」
いわば「自然に起因」する「人間の権利」をもち、「自然の定則」に従って「生活を遂ぐべきもの」が人間

ということ。

ルールありきで人間の自然な行動を規制するべきではなく、逆にその自然な行動こそが人間の規範となるべきものである。


いやー、私がSNSになじめず、はてなになじめるのもこの日本人として「自然かどうか」という美的判断に基づいたものだったわけですね(笑)

この手の源流をたどると鎌倉幕府にたどり着くようだが、鎌倉幕府時代は主権者が権力を発揮できなかったがために混沌とした状態になり、その自由さから今日にまで残るような新たなルールが生まれた、ということは随分皮肉なものだ。