指導者の条件(9) - 「二尊」の間の矛盾を生きる

  • 神聖組織:「信にかかわる」集団
  • 世俗組織:「知にかかわる」集団

ただし、神聖組織内におけいても両方の要素を兼ね備えているが、組織内における「知にかかわる問題」と「信にかかわる問題」の問題の峻別は重要な課題である。

  • 信教の自由:「信ずうることの自由」
  • 言論の自由:「知にかかわる」ことには相互に自由に触れ得る

ここで「信」が肥大化してしまうようなケース、「一切が信にのみかかわる」人間や組織が出てくると問題となり、日本のように中間的な組織である場合は特に「信/知」の問題の峻別をしないことが特徴であるがためにその問題を大きくする。

では「信」が極限まで肥大化した集団は、神聖組織としてみるべきなのかというと、あくまで擬似神聖組織に過ぎない。なぜなら、神聖組織はそもそも「理念」のために存在し、世俗はその「模型」に過ぎないのであるから、「信」が肥大化した組織に「模型」部分がないことから神聖組織ではない。また、世俗組織であれば「知に関わる」問題と取り扱うので、「正確な知識」をベースとした議論が行なわれるので、世俗組織でもない。

日本企業における擬似神聖組織の崩壊に基づくのその世俗化と、構成員自らの世俗化により、ともに完全に世俗化した組織の構成員の「信に関わる」問題にどう対処するべきか。


日本人はしばしば「義理人情」というが、この三概念は結合しないはずだと。「義」が「正しい」の意味なら、これは個人に属さない「公的な規定」、宗教的には「教義」に相当するはずである。次に「理」とは、その「義」がどこまで論理的整合性があるかということ、わば「理が通っているかどうか」ということであって、これは「情」にはまったく関係がないという。

しかし、日本では「義理人情」といえば、まず「情」の意味があり、もし人が、その組織を「一尊」としてそれに全人格を没入させてしまえば、すべてを規定するのは「情」のみになる。つまり、日本では、何らかの決定を行なおうとするとき、「もっぱら情に訴える」という方法が取らることになり、「義」も「理」ない。


二尊主義はこの「義」「理」の部分と「情」の部分をはっきりと分け、それぞれを一つの「尊」として並立させ、一人格内でこの二つが矛盾するのは当然と考え、この矛盾に身を置いて生きているのである。